2020年「焼き場に立つ少年」の真実【長崎原爆】行き場のない子供達

1945年(昭和20年)8月9日 午前11時02分

太平洋戦争末期の

長崎県長崎市に原子爆弾が投下されてから

75年が経ちます

戦争とは無縁の、平和な日々を過ごしている私たち

この1枚の少年の写真から

私たちは何を感じ

何を次世代に伝えていくべきか

当時子供だった被爆者はどんな思いで

現代を生きているのか

戦争を知らない私が、さらに戦争を知らない子供たちへ

何を残していくべきか考えていきます

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「焼き場に立つ少年」上戸明宏さんとは

by NHK

「焼き場に立つ少年」と題された1枚の写真

当時10歳くらいの

上戸 明宏(かみと あきひろ)さんであろう

という事がわかっています

背中には、 死んだ幼い弟を背負い

直立不動で、その弟の火葬の順番を待つ瞬間を

撮影したものです

撮影したのは 米軍カメラマンの ジョー・オダネル氏

by アメブロ

彼は原爆投下後、占領軍(他国の領土を支配する軍隊)

として福岡・佐世保へ上陸し

公務として、 戦争の破壊力を127枚の写真に残したのです

しかしその合間を縫って、軍の規則に違反して

内密に長崎を訪ね個人のカメラで撮影された写真が

30枚残されています

そこで オダネルは、焼き場に立つ少年に出会うのです

 「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。

…10才くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶ紐をたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。…しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやって来たという強い意志が感じられました。しかも彼は裸足です。少年は焼き場の渕まで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。

…少年は焼き場の渕に、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクをした男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶ紐を解き始めました。

この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気づいたのです。

男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。

それから眩いほどの炎がさっと舞い上がりました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。

その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血が滲んでいるのに気がついたのは。少年があまりにきつく噛みしめている為、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりと踵(きびす)を返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。背筋が凍るような光景でした。」

「これほど残酷な人災があるだろうか。これは人類に対する重罪と言える」(ジョー・オダネル)

NHKより

オダネルは2007年8月9日に85歳で亡くなられています

オダネルの命日が、くしくも長崎原爆投下忌であるとは…

彼はこの写真を43年間、どこへも公表せず自宅のトランクへ封印していました

しかし核兵器の恐ろしさを伝えるべく

世界に公表します

現代の技術をもって写真の分析を進めると

様々な事がわかってきています

  • 被爆から2か月以内の1945年10月頃までの期間に撮影されたもの
  • 当時、名札は左胸に縫い付ける決まりとなっていることから、写真は裏焼きであり反転したものであること
  • 気象台に残っている資料から撮影日は曇りの日である
  • 写真の背景に光が届いていないことから、カメラのフラッシュがたかれている
  • 127枚の写真の日時記録から、福岡・佐世保に居ない空白の数日があること
  • 1945年10月15,17,22日のいずれかである
  • 撮影されたオダネルと少年との距離は1.8mである
  • 背景は段々畑である
  • 背景の一番高い木の高さはおよそ19.78mである
  • 少年の足元にある線は電車の信号用の線長崎本線に敷設(ふせつ)されたものである
  • 道ノ尾駅~長与駅の間であろう

原爆を投下された場所は

長崎市松山町171番地の上空(現在の平和記念公園付近)であることから

オダネルは佐世保から遠く離れたこの長崎の道ノ尾駅付近まで

撮影にきていたのです

爆心地から1.5kmを歩き回っているうちに

残留放射線によって、少年もオダネルも

被爆をしていたことになります

この上戸さんは、記事によると

2015年より1年ほど前の

2014年頃に亡くなっている事がわかります

その当時の事柄が書かれているため以下、引用いたします

被爆70年 『焼き場に立つ少年』のその後

―2年ぶりに思いの深い長崎県の戸石村(東長崎)を訪れた。

米軍カメラマン・ジョーオダネル氏が撮影した『焼き場に立つ少年』上戸(かみと)明宏君は戦況も上げ潮の昭和17年初め、長崎県と佐賀県の県境にある小長井から母親の再婚先の戸石村に連れ子としてやって来た。

嫁ぎ先の家には明宏君と同い年のノブ子という女の子がいた。母親に男の子が生まれると二人は身体の弱い母に代わって仲良く弟の面倒を見ていた

あの原爆の夏の日(1945・8・9)、明宏君は国民学校が休みの日であったことから、弟を背負い牧島の見える港近くの浜辺で鯛干しの手伝いをしていた。朝の涼しさも過ぎ暑さが肌を差しはじめた頃、上空の飛行機の音に空を見上げると、銀色の大きな米軍の機体が長崎の方角に向かって飛んでいった。

まもなくした
11時2分、ピカッという閃光と共にドーンという轟音が響くと、目の前が真っ暗になり、猛烈な爆風が二人の小さな体を砂浜に叩きつけた。

「あったし!」(熱い)、顔を押さえたくなるような熱が少年と弟の体を巻き込んだ。しばらくすると西からの風に乗った長崎の方角から飛んできた真っ黒な灰が村を覆った。

『焼き場に立つ少年』の背中の弟の死因は不明だが、涙をこらえて唇を固く噛みしめ、弟に別れを告げる少年の下唇に赤くにじむ口の中の出血は何を病因としていたのだろうか。

明宏君が戸石国民学校6年に在籍していた時の同級生は現在も4人が82歳の歳で元気にしている。今回、その一人の里輝男さんから思いがけずに「明宏は1年少し前に小長井で亡くなったとの風の便りに聞いた」という話があった。

明宏君が戸石の村に居たのは2年ほどだったという。その後に母は戸石の夫と別れ明宏君と一緒に小長井に戻っている。

ノブ子は村を去る父親と一緒に長崎に向かい、奉公先を見つけたという。小長井に戻った明宏君は、戦後の食糧難のなか、有明海の船溜まりから小さな船で島原や雲仙に向かい食糧を買い求めては長崎の町で売って病弱な母親を助けていたという。

明宏君はオダネル氏が写した写真を見ていたのだろうか――

そのことを私は知りたかった。だが、これを誰に聞くこともしなかった。おとなしく親思いの明宏君は、嫁ぎ先で子を失った母の悲しみ、出戻り女への村人たちの冷たい視線のなかで自分を育ててくれた母を思うと、川の焼き場でわずか二歳の短い生涯を終えてしまった弟のことは、そっとしておこうと心に決めていたのだ。それが、写真のことを知りながら語ることを避けていた理由だったに違いない。

その後の明宏君の小長井での人生はどうであったかは知ることはできない。村の人たちには、思い出すこともできない遠い昔の話となっていた。

(公明新聞・文化欄 2015.8.2付)に、美術史研究・作家 吉岡栄二郎

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長崎原爆後、行き場のない子供達・被災者の今

被爆者は今も生きています

当時幼かった子供たちが

たまたま防空壕に入っていたお陰で

助かった命がたくさんあります

しかし、その行き場のない子供達が

どこにひきとられたのか

わずかな差がその子供たちの命を分けたのです

親戚に養子にやられ、小間使いにされた

両親が死に、うつ状態でおかしくなったきょうだいが自殺してしまう

死んだ母を自分で焼いた

泣き言を言ったらそこで終わりだった

そう話される、当時の子供達がいま

80代を迎えています

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 まとめ

なんの罪もない子供が一瞬にして親、きょうだいを失い

孤独になるなど想像もできません

私たちにできる事は

他人事だと思わず

戦争の真実を映像や言葉で

しっかり子供に伝えていくことです

二度と同じ過ちを繰り返すべきでないと

発信し続けていきたいです

最後までお読み頂きありがとうございました

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